SaaSスタートアップはエンタープライズに舵を切るべきか?注目の3社が「イエス」と答えた理由

ヘルススコアで顧客の状態を可視化する、SaaS向けカスタマーサクセス管理ツール「HiCustomer」

6月17日、HiCustomer株式会社が主催し、SaaS企業が集うイベント『SaaS Catalyst』を開催しました。

『SaaS Catalyst』の前半は、事業の急拡大を支えるカスタマーサクセスの役割について3つの登壇企業の事例を元に紐解いていきました。

後半戦は「SaaSスタートアップがエンタープライズに舵を切るとき」と題し、注目のSaaS企業3社の代表が登壇。モデレーターは、SaaSスタートアップに特化して投資をするVCファンド ALL STAR SAAS FUNDのManaging Partner 前田ヒロ氏(@djtokyo)が努めました。


(写真左から)
Wovn Technologies株式会社 代表取締役社長 林鷹治氏(@HAL0884)
株式会社ヤプリ 代表取締役 庵原保文氏(@ihaemon)
株式会社SmartHR 代表取締役CEO 宮田昇始氏(@miyasho88)

BtoB/SaaS企業の顧客層は、大きくSMBとエンタープライズに分けることができますが、各社が成長戦略を考える中で、どのような顧客層を狙うのかはとても重要なファクターの一つです。今回は、すでにエンタープライズ向けの展開を行っている3社の代表をお迎えし、その挑戦の過程を紐解いていきました。

機能でなくソリューションをーー。プロダクトに求められる変化

顧客層がSMBからエンタープライズになれば、プロダクトやサービスを開発し直さなければならない可能性があります。企業規模が違うことによって新たな機能が必要になったり、企業の複雑な業務オペレーションに合わせてプロダクト側に個別開発を求められたりするのです。

クラウド人事労務ソフトSmartHRを提供する宮田氏(@miyasho88)は、顧客規模の拡大に伴う段階的な「壁」の存在について指摘しました。
「顧客企業の社員数が1,000名規模を超えた時点から、既存のSMB向けの機能だけでなく新機能開発の必要性を感じました。リリース当初は、顧客の拠点は1箇所であることが前提でしたが、企業規模が大きくなると支店がある顧客も存在するようになり、既存の機能だけでは運用が出来なくなったのです。

さらに顧客層が拡大していく中で、チェーン展開する飲食・小売業では、スマホを持っていない従業員の方も多く、スマホから入社手続きに必要な情報を入力することを前提とするSmartHRは導入出来ないと言われたこともありました。また、コミュニケーションがLINE中心になっている若い世代のアルバイトの皆さんは、SmartHRに招待するためのメールアドレスを取得していないことも。
前者は店舗や工場に置いているiPad用から入力できるようiPadアプリの開発をしました。後者はLINEとの連携機能を追加開発する予定です。」(宮田氏)

また、保守体制の強化も必要だと、サイト・アプリ多言語化サービスWOVN.ioを提供する林氏(@HAL0884)は語ります。

「WOVN.ioはWEBサイトやアプリケーションにビルドインするため、例えばPVが100万あるサイトに導入された場合にはWOVN.ioにも100万PVの負荷がかかります。
規模の大きい顧客のサイトはトラフィックも大きいケースが多いので、これまで以上に安定稼働させることが圧倒的に重要になりましたね。」(林氏)

顧客層の変化に応じて、プロダクトも柔軟に変化していくことが求められそうです。では、これから意識的にエンタープライズをターゲットとして狙って行く場合は、何を変化させて臨むべきなのでしょうか。モデレータの前田氏から「プロダクトの見え方が重要になるのでは」と投げかけられました。

「やっぱりツールとしての機能だけの訴求だと提供価値が低く見えてしまうのでは。エンタープライズ向けの高単価プランを用意するなら顧客の大きな課題に対する『ソリューション』となる必要があるんじゃないかと感じる。」(前田氏)

庵原氏(@ihaemon)が、アプリ開発におけるオールインワンソリューションであるYappliの進化過程について、こう解説しました。
「Yappliは、SMB向けにアプリ作成ツールとして開発し、その機能面を打ち出していました。メインの訴求メッセージが『1分でアプリが作れる』というイメージ。ただ、エンタープライズの顧客層の導入を考えて行く過程で、プロダクトもメッセージも、ソリューションベースに変えました。店舗にとっての集客やECサイトにとっての売上といった課題に対して、アプリを作ることでどのように解決できるかを提示することを大切にしています。」(庵原氏)

「ツールからソリューションへの転換」の重要性については、他の2名も大きく頷いていました。

安心感や信頼を伝えるマーケティング戦略

狙う顧客層が変わればプロダクトが変わり、もちろんマーケティング戦略も再考する必要があります。「ブランド作りなど意識的に行ったことがあるのでは」と、前田氏は重ねて質問を投げかけます。

ヤプリが重点的に取り組んだのは「ヒーローマーケティング」だそう。

「エンタープライズの企業は、横の繋がりの中で互いに『あの会社がいい』『このツールがいい』と紹介し合っています。そのため、様々な方法で成功した導入企業をヒーローとして掲載させて頂きました。事例をまとめたホワイトペーパーから、動画ツール、自社イベントへの登壇など様々なタッチポイントで。
すると、導入企業とその周囲の企業の間に『ヤプリ使ってるんだよね?どう?』というコミュニケーションが生まれ、それが購入のきっかけになる。数自体は少なくてもこうしたバイラルを発生させることは重要視してますね。」(庵原氏)

実績と第三者の信頼を根拠に、着実に事業成長に貢献してきたヤプリのヒーローマーケティング。SmartHRでもリファラルマーケティングは実施していたようですが、その際に意識していたのが「口コミの熱量が広がる範囲」だと宮田氏は語ります。

「例えば、ターゲットを小売店業界に定めようとしても広すぎて、具体的にどこに口コミを発生させて、それがどこまで広がるかがイメージできません。しかし、ドラッグストアと言い換えれば、『ドラッグストアなら、あの三社を抑えれば業界全体に影響を与えられそう』と、イメージしやすくなります。こうしたメッセージを届けられる範囲、それが全体の中で占める割合などは、重視しています。」(宮田氏)

しかし、マーケットに存在するのは顧客と自社だけではありません。SmartHRでは驚異となる競合がでてきてないタイミングでCMを使い、先行投資していたと言います。

「私たちが飲食チェーンや小売チェーンのアーリーマジョリティ層へアプローチして行こうとするタイミングは、ちょうど競合サービスが出はじめていた時期。
アーリーマジョリティーはマーケットリーダーのサービスを選びやすい傾向にあります。そのため、『マーケットリーダーはSmartHRだ』という認知を確実なものにしていく必要があり、そのために実行したのがテレビCMです。当時は背伸びをしてでも、多くの資金をマーケティングに投下していましたね。」(宮田氏)

「SaaS企業はエンタープライズに進出すべきか」の問いに全員がYESと答えた理由

エンタープライズへの進出の過程で様々な壁を乗り越えてきた3社。イベントの最後にモデレーター前田氏から「ズバリSaaS企業はエンタープライズを狙うべきか」と、このセッションの肝が投げかけられます。その答えは3名ともに「Yes」。その理由について各者次のように語りました。

SmartHR宮田氏「このスライドの定義では、エンタープライズとは300名以上の会社を指しますが、企業の数自体は少なくても、そこに所属する従業員は、国内の労働人口の約半数にもなります。営業効率を考えると、エンタープライズに挑むべきでしょう。
特に従業員一人あたりの従量課金モデルであるSmartHRは、収益性を考えてもやらない理由はありません。

ただ、もう一度創業当時に戻って戦略を変えることがあるとしたら、プロダクトはエンタープライズを想定した設計にしたいと思います。ローンチして3年半経ちますが、実は未だに初期の技術負債返済のために開発の3〜4割の工数が割かれています。
市場への攻め方としては再度チャレンジしても同様にSMBで実績と信頼を積み重ねてからエンタープライズに挑戦すると考えますが、開発に関してはエンタープライズに耐えうるベースは意識するべきだったと感じますね。」

ヤプリ庵原氏「SBM向けとエンタープライズ向け、どのようにプラン設定を行うかの議論は、売上を作る手段についての議論です。どちらも経験した上で、Yappliのサービスはサポートコストが高くなりやすいので、高単価のエンタープライズ向けに集中する選択をしました。この点においては、各社の考え方次第かもしれません。

しかし振り返るとSMB向けに『簡単にアプリを作れるツール』として磨きあげたUI/UXが、エンタープライズ向けの管理画面に生かされていて、現在競合との差別化に繋がっているので、必要な過程でしたね。

エンタープライズ向けに展開していく上ではまだ悩みどころもあって……。エンタープライズはカスタマイズや独自UIの要望が増えるので、そのまま顧客に合わせ過ぎるとシステムと組織が疲弊していきます。結果として、顧客に良い製品を提供できないという悪循環になる。。なので顧客の要望と、システム・組織の持続性のバランスには注意しています。」

Wovn Technologies林氏「SMBからスタートすることで製品が磨かれるという点は、庵原さんに共感ですね。

そして、『SaaS企業はエンタープライズを狙うべきか』の問いについても、よく8:2の法則と言って、2割の顧客が8割の売上を構成していることが語られますが、エンタープライズの顧客こそ、この2割だと考えています。海外のSaaS企業の事例を研究しても、エンタープライズ向けに提供しているサービスが大きく売上を作っているケースは多いです。そういった意味でもSaaS企業はエンタープライズに向かっていくべきだと思いますね。」

全ての登壇企業が共にYesと答えた事より「SaaS企業はエンタープライズを狙うべきか」という問いには、挑戦する価値がある言えます。しかし、この選択は必ず成功を約束する「正解」ではありません。確からしい大きな方向性の中で成功確率をいかにあげるか、登壇企業を含め全ての企業が挑戦中です。ただ一つ、今回の登壇企業達によって赤裸々に語られた紆余曲折の歩みは、多くのSaaS企業に大きな学びをもたらした事は間違いないでしょう。
(文:萩原愛梨 編集:中村綾香)