人事領域のERPを提供する米国のSaaSプロバイダーWorkdayのDirector、Geoff Byron氏が書かれた記事をご紹介します。
注:Geoff Byron氏の許可をいただき原文の和訳を紹介します。
全てのNet Dollar Retention(*)が同じように作られるわけではない
(*訳者注)NDR:Net Revenue Retentioと同義
通常、Net Dollar Retention(NDR)は「12ヶ月前に獲得した顧客の現在のARR(Annual Recuring Revenue:年間経常収益)」を「同じ顧客の12ヶ月前のARR」で割ったもので定義されます(*)。これはコホートベースの指標であり、過去1年間に獲得した新規顧客のARRを除外したものです。売上ベースのNet Expansion Rateまたは売上ベースのNet Retention Rateとも呼ばれます。
(*訳者注)NDRの計算式 = 12ヶ月前に当月新規獲得と契約更新をした有料顧客の当月のARR / 同じ顧客の12ヶ月前のARR
NDRは、既存顧客からの売上がどの程度もたらされているのか、チャーンがどの程度発生しているのかを示してくれます。NDRに重大な影響を与える4つの主要因を以下に並べます。
1.グロスリテンション / チャーン
2.クロスセル
3.プロダクトのペネトレーション(*) / 採用による課金
4.従量課金体系
(*訳者注)プロダクトのペネトレーション:製品の浸透(力)
グロスリテンションは顧客のチャーンと活用後退を定量化し、プロダクトが市場に適合しているかどうか、そしてあなたのSaaSが顧客の課題解決にどれほど重要であるかを示しています。これは、4つの要因の中で最も重要な要素です。グロスリテンションはNDRを最大100%まで高めることができます(つまり、チャーンと活用後退が発生しなかった場合です)。まずはグロステンションが満足する水準に達することに注力し、その後にNDRの推進に取り組んでください。この記事では、チャーンの問題を抱えていないと仮定し、代わりに他の3つの要素に焦点を当てていきます。
他の3つの要素はNDRが100%以上になることを可能にするものです。NDRが100%以上であるということは、12ヶ月前の顧客が現在、あなたのプロダクトにより多くの費用を費やしていることを意味しています。どのくらい増えているのでしょうか?NDRが120%であれば、1年前より20%多く支出していることを意味します。このように、NDRがLTV(Life Time Value:顧客生涯価値)の理解にも役立つことがお分かりいただけるでしょう。
SaaSにおいて、ビジネスモデルを評価するための重要な成果は、(1) LTVの向上(高出力化)、(2) リソースの最小化(低入力化)の2つに集約できると考えています。この枠組みの中で、NDRに影響を与える3つの要素をプロットしました。
X軸は潜在的なLTVインパクトで、Y軸は必要なリソース消費量です。それでは、NDRに影響を与える3つの要素について探っていきましょう。
クロスセル
クロスセルは、より多くのプロダクトを顧客に販売することで発生します。クロスセルによりNDRを推進できるかどうかで、顧客がプロダクトロードマップに共感しているかどうかがわかります。たとえば、ServiceNowはITサービス管理からスタートしましたが、現在は新規ACVの80%を人事領域やカスタマーサービス領域で獲得しています。
クロスセルがLTVに与える影響は大きなものです。プロダクトが多いほどARRが高くなり、LTVの計算式(*)の分子が増えます。また、顧客がより多くのプロダクトを使用するほど、組織内でのあなたの地位が確固たるものとなり、ベンダーとしての粘着性を高めるため、LTV計算式の分母の解約率を減らすことができます。さらにクロスセルは、プロダクトのペネトレーション/従量課金によるNDRに相乗効果をもたらすことができます。
しかしクロスセルは高いLTVを生み出す一方で、コストも高くなります。新しいプロダクトを開発し市場に適合させるにはコストがかかります。エンタープライズセールスチームを通じてそのプロダクトを販売する費用もかかります。
セルフサーブまたはプロダクト主導型の成長モデルを導入している企業においては、セールス/マーケティングのコストは比較的低くなりますが、依然としてコストが高い象限にあると言えるでしょう。
(*訳者注)LTVの計算式:LTV = 平均単価 / 解約率
プロダクトのペネトレーション/ 採用による課金
プロダクトのペネトレーションは、顧客がより多くのシートを購入するか、より多くのユースケースでプロダクトを使用するときに発生します。顧客があなたのSaaSを活用して実施する仕事があります。プロダクトがペネトレーションしている状態とは、あなたのプロダクトによって解決されるジョブが存在し続けていることを意味しています。
言い換えれば、プロダクトが顧客のより多くの部門で採用され、シェアが広がることを意味します。ボトムアップモデルではより一般的なものです。以前のビデオ会議ソフトウェアと比較し、より多くの同僚が会議のスケジュールを立てるためにZoomを使用していることを考えてみてください。
プロダクトのペネトレーションによるLTVへの影響は中程度です。なぜ高ではなく中程度であるかというと、一度完全に浸透してしまうと、このNDRは完全に枯渇してしまうからです。全てのジョブがあなたのソフトウェアによって処理されるようにると、拡大の余地はもうどこにも残されていません。有限で、上限があります。Zoomについてもう一度考えてみましょう。彼らはシートごとに価格をつけています。全社員がZoomビデオチャットを使用すると、プロダクトのペネトレーションはその顧客のNDRドライバーではなくなります。
プロダクトのペネトレーションのコストも中程度です。プロダクトはすでに存在するため、R&Dコストはほぼ掛かりません。ボトムアップで顧客社内で広がっていくかもしれませんが、販売のための努力は引き続き求められ、もしかしたらトップアプローチが必要になるかもしれません。しかし、顧客はすでにプロダクトの価値を認識しているので、プロダクトが残りの流通作業の一部を担うこととなり、どちらの方法も費用対効果が高いはずです。
従量課金体系
従量課金を導入すると、プロダクトが顧客に提供している価値の”量”に関与することができます。たとえば、Twilioの価格は送信されたSMSの数に基づいているため、顧客がSMSを送信する回数が増えると顧客あたりのARRが増加します。従量課金によって推進されるNDRは、ベンダーと顧客の間の価値の調整であり、リスクを背負いあっているということなのです。
プロダクトのペネトレーションとは異なり、従量課金体系によって推進されるNDRは、機能の採用に制限されません。その影響は、顧客内でのシェアを超え、顧客の仕事の量にまで及びます。従量課金は、時間の経過とともに持続的なNDRの増加を促進する可能性があるため、LTVに大きな影響を与えうるのです。顧客の成長とともにあなたが処理できるジョブが増え続けるのであれば、あなたも理論的に永久に成功にあずかることができます。
Twilioの例では、プロダクトがペネトレーションしている状態とは、顧客のすべてのプロダクトがSMSにTwilioを使用している場合です。Twilioは、送信されるSMSメッセージの100%のシェアを持っています。従量課金のよるNDRの推進とは、顧客のプロダクトが成長するにつれてより多くのSMSを送信するようになることです。Uberの人気が高まり、より多くの車の到着テキストを送信し、Twilioの収益を増加させたと考えてください。
従量課金は、唯一の低コストのNDR要素でもあります。場合によっては、コストがかかりません。利用状況を把握し、顧客に適切に請求されるようにすること(これは計画的に管理することができます)を除けば、SaaSベンダーが必要とする作業は最小限に抑えられます。
経営者としてあなたのビジネスモデルの文脈でNDRを理解する必要があります
NDRは万能ではありません。共通点はありますが、NDRは会社のビジネスモデルの側面を数値化したものです。そのため、あなたは経営者として、NDRという指標があなたのビジネスと他社のビジネスで異なる意味を持つことを理解する必要があります。なぜでしょうか?クロスセル、プロダクトのペネトレーション、および従量課金体系をどの程度展開するかは、あなたのビジネスに特有のものだからです。私は各要素ごとにNDRをトラッキングしてレポートすることをお勧めしています。
上記の架空の会社を分析すると、ランド&エクスパンドで広げていくプロダクトのペネトレーションが顧客ベースを毎年32%増加させていることがわかります。その結果、ランド&エクスパンドの動きは上手くいっていると結論付けることができます。
また、クロスセルがNDRをあまり推進していないこともわかります。この会社がまだコアプロダクトのみを展開しているのであれば問題ないかもしれません。しかし、顧客が私の会社のアドオンプロダクトを購入していない場合、それは懸念事項になるでしょう。
そして最後に、従量課金は現在の価格戦略の大きな部分ではないことがわかります。しかし、それを試してみると、ここのグラフ上で結果が見えてきます。
NDRの結果を伝える際には、このようにビジネスモデルの文脈の中で説明します。NDRの各要素を見ることで、主にランド&エクスパンドによるプロダクトのペネトレーションがどれだけ上手く機能しているのか、それぞれの要素がNDRにどのように影響を与えているのかを確認することができるのです。
(*訳者注)ランド&エクスパンド:無料や小規模の導入から始めて顧客と関係性を作ってから、徐々にアップセルやクロスセルの機会を作って売上を拡大していくこと
すべてのNDRが同じように作られるわけではありません
プロダクトのペネトレーション、クロスセル、または従量課金体系によって顧客のARR(ひいてはNDR)が増加することはポジティブなことです。ただし、リソース要件とその結果としてのLTVへの影響は全てのNDR要素で同一ではなく、その価値や品質に差があります。以下では、構成要素別にNDRの品質をランク付けしています。ランキングの第一要因はLTVにインパクトを与える能力と、そのインパクトに上限があるかないか、そして第二の要因はコストです。
従量課金体系とクロスセルではLTVの成長に上限がないのに対し、プロダクトのペネトレーションによるLTVの成長には上限があります。したがって、従量課金(LTVの成長に上限がなく、最低コスト)が最高品質のNDRドライバーであり、プロダクトのペネトレーション(LTVの成長に上限があり、中程度のコスト)が最低品質のNDRドライバーであると私は主張しています。
ボトムアップvs.トップダウン
プロダクトのペネトレーションによるLTVが有限なのであれば、「高いNDRを伴うボトムアップでのランド&エクスパンドによる動き」、「NDRを犠牲にしたトップダウンでの拡販」のどちらを選択すべきなのでしょうか。
このトピックはこれ単体での投稿にも値しますが、ここではNDRの文脈でお答えします。厳密にはLTVの観点から(もちろん重要な要素である販売摩擦は無視して)、あなたの目標は、あなたのプロダクトが100%の市場シェアを持つこと、すなわち顧客への完全な浸透です。ランド&エクスパンドによるプロダクトのペネトレーションは、この目的を達成するための手段です。そしてこの場合、NDRは、最終的にどの程度顧客内でプロダクトが浸透しているかを表します。
ランド&エクスパンドで採用率を上げていく動きと比較すると、トップダウンからの拡販運動では、最初の販売サイクルの一部としてプロダクトのペネトレーションを実現します。一般的にNDRは通常は低くなりますが、これはARRの拡大に何年もかかっていたであろうものを今日まで前倒ししたからです。
つまり、NDRを犠牲にしてトップダウンの動きをすることで、顧客のLTVにより強い影響を与えることができるのです。そして、クロスセルと従量課金といった上限のない高品質のNDRを推進することにより力を注ぐことができます。ここで説明しませんが、もちろん他にもトレードオフはあります。
NDRと株式市場
先日、Software Equity Groupの以下のグラフを見つけました。市場はNDRに非常に関心を寄せており、ご覧の通り、NDRの高さはバリュエーションの高さと相関があることがわかります。SaaS企業を加えるとR2(決定係数)が減少するため、SaaS企業においてはバリュエーションの要因にならない可能性があることに注意してください。
Twilioが最も高いNDRを推進しているのも不思議ではありません。そして私は、Twillioが最も質が高く最も持続可能なNDRを持っていると考えています。これを書いている時点では、クロスセル、プロダクトのペネトレーション、および従量課金体系の3つの要素すべてを通じてNDRを推進している数少ない上場企業の1つです。彼らのNDRの内訳を見てみたいのですが、従量課金が重要な貢献を果たしているだろうと予想しています。
上記のグラフで120%以上のNDRを使用している企業のほとんどは、ランド&エクスパンドのビジネスモデルを持っており、プロダクトのペネトレーションによってNDRを推進しています。しかしプロダクトのペネトレーションはいずれ枯渇するため、同じレベルでNDRを推進し続けるためには、新プロダクトを市場にうまく投入できるかどうかが肝になるということを学んできました。彼らのビジネスモデルを批判しているわけではありません。ボトムアップのランド&エクスパンドはうまくいっており、素晴らしいビジネスモデルです。しかし、このビジネスの動きから得られるNDRには上限があるのです。
この点が世間的に理解されているかどうかは不明です。しかし、ビジネスモデルとNDR指標といった比較にならないようなもののグラフが公開されているという事実は、私たちがまだ学ぶべきことがあることを示唆しているのではないでしょうか。

2008年に株式会社インテリジェンス(現パーソルプロセス&テクノロジー株式会社)入社。ITアウトソーソング部門にて複数のプロジェクトを経験後、マネジャーに着任。2017年からは新規事業開発部門にて、自社開発サービスの営業・カスタマーサクセスに従事。2018年に、自社カスタマーサクセス/カスタマーサクセスアウトソーシングサービスの立ち上げを実施。
2019年4月よりHiCustomer株式会社にて、セールス/マーケティングを担当。